仙台牛タウン

仙台牛タン歴史|仙台牛タンの誕生・発祥・歴史をご紹介

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仙台牛タンの歴史

~僕らが現在、美味しく食べることができる仙台牛タン焼き誕生の背景には
戦後の復興を支えた歴史的なドラマがある~

佐野啓四郎氏
▲「太助」初代 佐野啓四郎氏

 太平洋戦争が終結し、日本が復興に向けて歩み始めた昭和23年、仙台牛タン焼きの歴史が始まりました。
 仙台牛タンの生みの親「太助」の初代店主 佐野 啓四郎氏(故)が、洋食料理の中で使われていた素材「牛タン」の旨さのとりこになり、試行錯誤を重ねた末「牛タン焼き」が誕生しました。その自慢の一品を、お店で出したのが仙台牛タン焼きの始まりです。

 「牛タン焼き」は、今や仙台と云えば牛タンと呼ばれるくらい仙台名物として全国に知れ渡ったいま、全国に皆様から「何で仙台が発祥なの?」「どうして牛タンという素材に着目したの?」・・・といった質問をいただきます。

 今回、「仙台牛タウン」では、仙台牛タン誕生の真相を、当時の関係者の証言をもとに、明らかにします。

 お友達やご家族で、職場などでも、ちょっとだけ自慢できるウンチク話がてんこ盛りの内容となっております。牛タン界の定説をくつがえすような新事実も明らかになりましたので牛タンファンには必見です!!

 それでは、どうぞお楽しみ下さい。

(写真は仙台の町並み写真などで数々の受賞歴をお持ちの写真家 中嶋忠一氏にご提供をいただきました。)

牛タン焼き 誕生秘話

戦後復興の進まない焼け野原の東二番町通り
▲戦後復興の進まない焼け野原の東二番町通り

時は戦後の混乱期

 牛タン焼きの誕生は昭和20年代。時はまさに終戦直後の混乱期、仙台市内は、失業者であふれ、慢性的な食糧難に加えて、酔っぱらいや喧嘩が多く、火事などが多発した物騒な時代でした。町のあちこちで戦争未亡人が飲食店を開いていました。

 中でも手軽に開業できる焼き鳥屋は大人気で、仙台市内では多く焼き鳥屋が営業しておりました。牛タン焼きの生みの親である(故)佐野 啓四郎氏も当時は和食の職人として、焼き鳥中心の飲食店を経営しておりました。戦後間もないため、治安が悪く、男手は不足しておりました。くせの悪い酔っ払いやケンカのたびに、戦争未亡人が男気のある佐野氏に助けを求めていたそうです。お店の屋号を決める時に保健所の方から「一心太助(いっしんたすけ)」にしたらどうか?と提案されて、最初の「一心」の部分だけを消して「太助」と命名したそうです。


▲昭和31年 露店の果実屋さん(駅前東宝前の通り)

人には真似のできないものを

 当時は食糧難ということもあり、焼き鳥屋といっても鶏肉だけではなく、豚肉や牛肉など、様々な素材を焼き料理として出していました。
 そんな中、和食の職人として腕をふるっていた啓四郎氏の悩みは、焼き料理は調理方法が簡単なので、ヒット商品を出しても、周りのお店に次々と真似されてしまうことでした。

 「誰にも真似のできない自分だけの料理を造りたい!」

 そんな気持ちが自然と芽生えるようになりました。生粋の職人だった佐野氏にとっては必然的ともいえる欲求だったのかもしれません。


▲昭和30年 仙台駅前さくら野百貨店横付近

洋食料理の素材「牛タン」

 啓四郎氏は苦しい胸の内を、洋食屋を経営していた親友の小野氏へ相談しました。
 それから、何日かして小野氏から「お店で牛タンを出してみたら?」と提案されました。和食では通常扱うことのない素材でしたが、職人としての好奇心からどんなに美味しいものかと思い、小野氏の勧めに従って、小野氏が知り合いの洋食屋に行き、タンシチューを食べてみました。

 食べてビックリ「コクがあって本当に旨い!」啓四郎氏は、一口で「牛タン」の持つ素材の魅力にひかれました。しかしながらタンシチューは3日も4日もかけてじっくり煮込んで作る料理のため、焼き料理中心のお店では適さない食材。啓四郎氏の牛タン焼き造りの試行錯誤の日々が始まりました。

仙台の牛タン定食
▲今も昔も変わらない仙台の牛タン定食

原料集めの苦悩、牛タン焼きの誕生

 研究をはじめて、すぐに困った問題にあたりました。牛タンの素材そのものが仙台市内ではほとんど売っていないのです。牛タンを求め、宮城県内のと畜場や山形県内のと畜場へ電話をし、運良く牛タンが見つかると後日に取りに行くからとお願いして、牛タンを確保する日々が続きました。

 当初は、おっかなびっくりでお客様の口に合うかどうか確かめながら販売する毎日でした。
 一週間かけて宮城県内や山形へ買い出しに行っても牛タンは10本も集まりませんでした。牛タン1本から25枚前後しかとれないので一人前3枚限定としました。職人の良心にかけて、1頭に1本しかない牛タンとテールを、いかにお客様に美味しく食べていただくか、そして食べさせ続けるられるか、とにかく頑張ったそうです。

 当初、牛タンの皮の剥き方も何もわからず、手には切り傷が絶えませんでした。連日、牛タン相手に悪戦苦闘の末、和食の職人ならではのアイデアを思いつきました。それは、切り身にして塩味で寝かせて焼く現在の手法です。
 一人作業場へこもり、牛タンの切り身の厚さ、包丁の入れ方、熟成期間、塩の量、塩の振り方、炭火の火力、焼き加減など、あらゆる角度から研究を重ねました。

 そして・・・・・ついに、仙台牛タン焼きが誕生したのです。

偽りの米軍残り物説

 仙台牛タン焼きの誕生は定説では昭和初期に当時、仙台に駐留してたアメリカ兵が食べ残した牛肉の余剰部分を利用したのがはじまりとされてきました。しかし調査をしてみると当時、アメリカ進駐軍は、アメリカ本土から牛肉を解体したものを輸入していたため、牛タン自体はほとんど輸入されていなかったそうです。


▲昭和32年 夜の東一番町通り

当時の”牛”事情について

 宮城県内では裕福な農家しか牛を飼うことが出来ませんでした。
 宮城県内の畜場や山形のと畜場では一週間にと畜する頭数は平均2、3頭ぐらい。と畜予定の牛タン予約をして、確保でき次第それを集めてきて使っていました。アメリカ産の余りものを使ったわけではないそうです。

「旨味 太助」社長 佐野八勇氏の話

 「お店は第1、3、5日曜が定休日でしたが、平日に電話で各と畜場へ依頼をして休みのたびに、おやじのお供で宮城県内や山形の農家を回り、牛タンを集めていました。昭和41年の秋口から昭和53年のお盆まで、私が休みをいただけたのは、1年のうちに、8月16日(お盆)と正月の元旦だけでした。」

 仙台牛タンの名前が有名になるにつれて、いつからかこのような米軍残り物説が生まれたようです。

 仙台牛タン焼き誕生の背景には戦後の復興を支えた歴史的なドラマがある。仙台で牛タン焼きを食べる時には、そんな歴史も頭に思い浮かべながら食べてみると味もまた格別かもしれない。